周遊きっぷ(大分ゾーン)の旅
2日目:2012年9月13日(木曜日)
臼杵(その1)

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臼杵駅。 臼杵駅前には臼杵石仏のレプリカがあった。
県道33号を北進し、税務署を過ぎると
櫓と石垣が見えた。
卯寅口から入城。
石垣と櫓の配置は、一目で門跡だとわかる。 卯寅口門脇櫓。嘉永年間に再築された。
1950年頃まで現役だった井戸。
この井戸に因んでか、この曲輪は「井戸丸」と称している。
井戸のそばから東を向いて井戸丸を見る。
卯寅口門脇櫓に近づいて撮影。
鳥居が並ぶ階段を上ると・・・
そこは卯寅稲荷神社の境内。
鉄門跡。
桝形の石垣は南側だけ残っている。
この奥には武具櫓があった。
本丸跡。
大友義統が改易された後、臼杵に入封した
福原直高によって築かれた。
本丸跡から卯寅口門脇櫓を見る。
この奥は亀首櫓跡。
名の由来は、丹生島を亀に見立てて、
東端が亀の首のように見えたからであろうか。
亀首櫓跡からの眺め。
奥には「おにぎり島」こと津久見島が見える。
天守櫓跡。
往時には三層四重の天守櫓が建っていた。
天守台石垣(北側)。
左奥の階段付近には付櫓があったらしい。
天守台石垣(西側)と、本丸と二の丸を隔てる空堀。
鉄門跡に戻り、二の丸へ。
その前に・・・
空堀(北側)。
こちらは大友時代からあったとされる。
空堀(南側)。
こちらの空堀は稲葉氏入封後に造られた。
二の丸。 二の丸にある野上弥生子文学碑。
「廃墟」の銅像。
基となった塑像は、
鹿ケ谷の陰謀に加担したとして
平清盛によって薩摩の硫黄島に流された、
後白河法皇の近習だった僧・俊寛をもとに
臼杵出身の彫刻家・日名子実三が制作した。
儀太夫前櫓跡。
二の丸南側にある2本の樅の木は
「日本一ネット」によって2003年に
日本一大きなモミの木のクリスマスツリー
に認定された。
大友宗麟公碑(左)と佛狼機砲碑(右)。
現地の説明板によると、
今ある大友宗麟公碑(レリーフ)は2代目で、
初代は1937年に日名子実三が制作したが
1944年に金属供出として政府に献納された。
その後、1982年に京都嵯峨美術短期大学の辻浩が
復元制作して現在に至る。
佛狼機砲碑は実際に臼杵城に備え付けられていた
フランキ砲「国崩」を複製したもの。
実物は廃藩置県後に国に献上され、
現在は東京の靖国神社境内にある遊就館で
展示されている。
「故臼杵藩大夫邨瀬君政績碑」。
天保二年(1831年)に臼杵藩の藩政改革の総元締に
抜擢されて藩の財政を立て直した村瀬庄兵衛の功績を
長く讃えるために建てられた。(現地の説明板より)
上ノ門跡。 奥の石垣は着見櫓跡。
着見櫓跡付近はかなり離れたところまで
立入禁止になっていた。
それでも、立ち入り禁止範囲外ぎりぎりから
着見櫓跡を撮影。
左奥には日本山妙法寺の仏舎利塔が見える。
別アングルからの撮影。 二の丸から今橋口を撮影。
今橋門(今橋門櫓)や今橋門脇櫓があったらしいが
現在は跡形もない。
臼杵護国神社。
境内はもともと稲葉氏の居館や庭園があったところで、
明治11年に招魂社が創建、
翌年に稲葉家の祖・稲葉良通(一鉄)を祭神とする
稲葉神社が創建された。
(後に歴代藩主も祭神に加えられる)
昭和35年に稲葉神社が招魂社を合併して
臼杵護国神社となった。
会所櫓跡。 会所櫓から大門櫓へ伸びる土塁。
臼杵護国神社の鳥居と大門櫓(模擬復元)。
大門櫓の南には井楼櫓跡がある。 大門櫓。平成12年に模擬復元された。
二の丸の南西端にある井楼櫓跡に登ってみる。
その2に続く

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