旅の記録2013
大崎下島(その2)
2013年5月4日

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↑御手洗港付近のストリートビュー

8年前にも訪れた南潮山満舟寺(真言宗古儀派)。
この石垣は豊臣秀吉の四国征伐の際に前線基地として
加藤清正が築いたといわれている(現地の説明板より)。
境内にある誰彼塚(たそがれつか)。
松尾芭蕉の百回忌(寛政5年:1793年)にあたって当地の
廃人らによって建立された。
俳人・栗田樗堂(くりたちょどう)の墓
松山の酒造家で松前町の町方大年寄を務めていたが、
享和2年(1802年)に御手洗へ移って「二畳庵」を結び、
文化11年(1814年)に亡くなった。
小林一茶と親交が厚く、一茶は2度松山の「庚申庵」
(松山市味酒町2丁目)に樗堂を訪ねているほか、
樗堂の訃報に際して「此次は我身の上か鳴く烏」の句を
詠み、「大事の人をなくした」として信濃に帰郷したという。
満舟寺本堂(観音堂)。
掲げられている「満舟寺」の額の奉納者は栗田樗堂で、
生前に彫刻を依頼していたものが没後の文化12年に
掲げられた。
境内にある、明和7年(1770年)造立の亀趺墓
実在の亀ではなく想像上の霊亀を象っている。
現地の説明板にある広島大学教授の解説によれば、
大名家の墓以外の亀趺墓は全国的に珍しいらしい。
満舟寺に隣接している荒神社。
その名の通り?中が荒れてそうだったので
立ち入らずに階段を下りた。
安政5年(1858年)創業の「新光時計店」。
昭和初期には現在の店舗名になったらしいが、
多くのガイドマップでは旧店舗名の「松浦時計店」と
表記されているので注意。
乙女座
昭和12年に劇場として建てられ、
戦後は映画館として使われた後、選果場に転用されたが、
選果場の移転後は空き家になっていたところ
地元住民の要望で2002年に創業当時の姿に復元された。
天満神社(天満宮)
現地の説明板によると、明治4年に満舟寺にあった
菅公像をこの地に建てた小さな社に移したのが
起源といわれる。
大正6年に社殿を建て替えた際に建立した、菅原道真の歌
「我たのむ 人をむなしくなすならば
天か下にて 名をやなかさん」の碑。
御手洗出身で、日本人で初めて「自転車による世界一周」
を行った中村春吉の記念碑。
天満神社拝殿。
「菅公御手洗井戸」。
「御手洗」の地名の由来になったといわれる井戸。
近世までは神功皇后がこの井戸で手を洗ったという
伝承が由来とされたが、明治には菅原道真が太宰府へ
左遷される際にこの井戸で手を洗ったいう伝承が
主流となり、それに基づいて天満神社が建てられたらしい。
天満神社本殿。
本殿の下にある道は「可能門」といい、願いを込めて
この道を通ると願いがかなうらしい。
可能門を通り抜けて振り返る。
旧金子家住宅。慶応3年(1867年)にここで、
長州藩と広島藩の間に討幕軍としての役割分担の協定
(御手洗条約)が結ばれた。
若胡子屋跡
広島藩公認の茶屋(遊郭)として享保9年(1724年)に開業。
明治時代には建物が寺院に転用されたこともあるらしい。
七卿落遺跡「七卿館」
もとは庄屋「竹原屋」の屋敷で、文久3年8月18日の政変で
長州に逃れた7人の公家のうち5人が元治元年(1864年)
蛤御門の変(禁門の変)に乗じて帰京を企てたが失敗し、
長州へ戻る途中7月22日から3日間ここに滞在した。
アニメ「たまゆら」に登場する桜田麻音の実家の旅館
「のどか亭」のモデルになっているが、アニメ側で脚色が
されているのか、細かいところで異なる部分がある。
右手奥には
「豊町歴史民俗資料館」の看板がかかっている。
帰宅後にインターネットで調べたら
歴史民俗資料(民具)が360点展示されているが
見学する場合は事前に潮待ち館または豊公民館への
連絡が必要らしい。
事情は何となく分かるが、事前情報のない観光客が
たまたま見つけてふらっと入ることはできないので、
見つけづらさも含めてかなり敷居の高い施設と言える。
それをクリアしたうえで見られる展示資料の価値は
いかほどのものなのだろうか。
御手洗を後にし、大長港へ戻る。
途中、豊大橋そばから大長港と中ノ島を望む。 豊大橋から大長南堀を見る。南堀と北堀には近隣の島の
みかん畑からみかんを運ぶための「農船」が停泊している。
しかし、今や本州から岡村島まで橋が架かって車で運べる
ことから、その数はだいぶ減ってきているらしい。
大長大橋。 大長大橋から大長北堀を見る。
こちらには十指で足りてしまうほどの数しか「農船」がない。
大長港に戻ってきた。
大きなみかんが乗っかった公衆電話ボックスは
8年経ってもそのまま残っていた。
待合室の中。かつては本州や周辺の島々から船が発着し、
それらの時刻が窓口の上にある3面分の時刻表に
記されていたのだろうが、訪問時は見ての通り3面とも
その役割を終えていた。また、大長に発着する唯一の
定期船である竹原行きは窓口の仕切りに時刻表の紙が
貼られ、乗船券は左の券売機で買えることから、窓口も
ほとんど機能していなかった。
竹原行きの高速船の出発まで少し時間があったので
小長港まで行ってみた。
小長港から戻る途中に、北側から大長港を撮影。
1990年代にはフェリーの発着場もあったらしい
(呉市豊市民センターWebサイトの「豊町のあゆみ」参照)
が、今は小さな桟橋1つだけ。

17時20分発の高速船に乗り、大崎下島を離れた。

高速船が竹原港に着いたのは時刻表通りの18時4分。
次の竹原駅発の糸崎行き列車は18時23分発。
竹原港から竹原駅までの徒歩所要時間見込みは約20分。
18時23分を逃すと、その次は19時6分発。
脇目も振らずにひたすら早歩き。
途中、18時25分発の広行き下り列車の通過のため汐入川踏切で足止めされる。
竹原駅に着いたところで上り列車入線の自動放送。なんとか間に合った・・・。
糸崎駅で岡山方面・赤穂線直通の日生行き列車に乗り継ぎ、福山駅で下車。
この日の宿は福山競馬場跡のそばにあるホテルだった。


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