旅の記録2013 |
大崎下島(その1) |
2013年5月4日 |
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竹原から乗った高速船「かがやき2号」は13時48分、大長港に到着。約8年ぶりに大崎下島に上陸した。 | |
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大長港から海沿いの県道355号を南東方向に進むと 御手洗地区に入った。そのまま海沿いを行く。 |
御手洗港。竹原−大長間の高速船は1日1往復だけ この御手洗港を経由する。その時以外は格好の釣り場。 |
※御手洗地区の地図については、呉市豊町観光協会のサイトの「おすすめモデルコース」ページにて パンフレット「見たらいい町、御手洗マップ」がダウンロードできる(現地にも同様の地図はある)。 主要な地図サイトでは御手洗地区の詳細な地図が表示されないので注意。 |
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江戸みなとまち展示館(入館料200円)。 御手洗に関する展示を「交易」「交遊」「交歓」の 3つの視点から行っている。 |
蛭子神社。現地の説明板によると元文・寛保年間に 豊前小倉(現・北九州市)からご神体を移してきたらしい。 |
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防波堤の切れ目から千砂子波止(ちさごはと)を見る。 千砂子波止は文政11年(1828年)に着工、翌年完成した。 |
高灯籠と住吉橋。奥には住吉神社がある。住吉神社は 波止場の鎮守として堺の住吉大社から勧請され、 大坂の鴻池善右衛門らの寄進によって文政11年から 13年(1828年〜30年)に造営された。 |
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「太平夜景」と刻まれた高灯籠(高さ6.18m)。 御手洗の庄屋三笠屋忠左衛門によって寄進された。 |
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明治43年8月の銘がある住吉橋を渡り、 住吉神社の境内へ。 |
住吉神社の境内から千砂子波止と雁木を見る。 |
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住吉神社の拝殿。 | 住吉神社の本殿。 |
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千砂子波止を先端まで進む。 | 先端にある燈台は平成6年に改築されたもの。 |
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千砂子波止の先端から御手洗の町並みを見る。 | |
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次は、瀬戸内海の島々が一望できるという 歴史の見える丘公園へ向かう。 |
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この階段は体験学習施設「ふるさと学園」の敷地内にある。 | ここにはかつて御手洗幼稚園・小学校・中学校があったが、 豊小学校・中学校との統合により中学校は昭和35年、 小学校は昭和48年に廃止された。 |
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歴史の見える丘公園への階段の途中には 幕末の広島藩士・星野文平の碑がある。 星野文平は昌平黌で学んだ後広島藩の学問所で 教鞭をとっていたが、討幕運動のため脱藩して 京都に上ろうとして引きとめられ、文久3年(1863年)には 辻維岳の上京に同行できなかったことから切腹を企てた。 その後藩から許可をもらって京都に上り討幕運動を行った が、伏見にいる勝海舟へ会いに行く途中に切腹未遂の際の 傷が悪化して2月10日に29歳の若さで亡くなった。 |
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このあたりが中間点。 奥に見える休憩所にはポンプ室がある。 目的地である頂上はその上に見えるが、 そこに行くまでにはさらに多くの階段を上る必要がある。 |
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このあたりで収穫したみかんを麓に運搬するための農業モノレールがあった。 | |
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北方面の眺め。 奥には中ノ島・小島・岡村島が見える。 |
東方面(住吉神社・千砂子波止)の眺め。 奥に見える岬は岡村島の最南端・観音崎。 |
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山岡農道。麓から伸びているので、 車があれば遠回りだがこの農道経由で 頂上のそばまで登ることができる。 <その2へ続く> |
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