旅の記録2013
福 山(その1)
2013年5月3日

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2013年のゴールデンウィークは、新年度の予定がなかなか決まらなかったため旅行の計画も立てられず、
4月の3連休(4/27〜4/29)の旅行は断念した。5月の4連休(5/3〜5/6)についても準備の遅れから
新幹線特急券と宿の確保に多少の支障はあったものの、何とか2泊3日の計画は整った。

2013年5月3日(金曜日・憲法記念日)、新大阪行き「のぞみ337号」→鹿児島中央行き「さくら559号」と乗り継いで
福山駅に到着したのは15時6分。日没までの時間が比較的長い時期とはいえ、あの2011年3月以来2年ぶりに降り立ったという
感慨にふける間もなく福山観光を開始した。

*2011年3月の旅行の記録はこちら(田原→福山鞆の浦神辺※閲覧注意

まずは駅前にある、というか福山駅自体が
その縄張りの中につくられたという「福山城」へ。
もともとの福山城には存在せず、
福山駅からの観光客のためにつくられた階段を上る。
階段の途中、福山駅在来線ホームと同じレベルから
駅構内を撮影。左奥の7・8番のりばは
2011年3月にも利用した福塩線のホーム、
長い5・6番のりばと隣の3・4番のりばは山陽本線ホーム。
階段を上り切ると、「史跡 福山城跡」の石柱と
伏見櫓(国指定重要文化財)が迎えてくれる。
元は伏見城松の丸東櫓で、元和5年(西暦1619年)に
水野勝成が大和郡山からの転封に際して2代将軍
徳川秀忠から拝領して移築したといわれている。
筋鉄御門(すじがねごもん:国指定重要文化財)。
福山城本丸の正門として使われていた。
これも伏見城から移築されたものといわれている
(現地の説明板にも記されている)が、
二の丸正門の鉄門と混同されているとの指摘
(参考サイト:備後歴史探訪倶楽部)もある。
筋鉄御門をくぐって本丸に入ると「伏見御殿跡」がある。
前出の備後歴史探訪倶楽部のページでは、
本丸御殿は近世において「伏見御殿」と称されておらず、
また御殿も伏見城から移築されたのは一部であると
指摘されている。
筋鉄御門を本丸側から見る。
鐘櫓(福山市重要文化財)。
城下や近隣の村に「時の鐘」を告げ、
また緊急時に藩士を招集する太鼓も備えていた。
当初は柿(こけら)葺きまたは檜皮(ひわだ)葺きだったが
櫓が補修を重ねた結果原形をとどめなくなったため
昭和54年の復元工事の際に銅板葺きに改めた。
伏見櫓の正面。 再建天守。中は福山城博物館として
原始時代から明治時代までの福山の歴史に関する
資料が展示されている。
右奥に人質櫓跡がある。 人質櫓跡の櫓台。
奥に、本丸の搦め手にあたる棗門跡が見える。 棗門は櫓門だったと思われるが、櫓台は西側のこれしか
残っていない。
櫓台から棗門の虎口を見る。
鉄筋コンクリートで再建された鏡櫓。 同じく再建された月見櫓。
この門はもともとはなく、明治時代に新しく作られたらしい。 二の丸帯曲輪へ。
二の丸帯曲輪から月見櫓を見る。
二の丸帯曲輪から鏡櫓を見る。 二の丸帯曲輪南側。筋鉄御門の下に門があったらしい。
人質櫓跡および馬出門(台所門)まで続く多聞櫓跡の石垣。 馬出門(台所門)跡。
向かって左側に出入口があったが、埋められている。
右奥は鐘櫓。
火打櫓跡の石垣。 福山藩主阿部家第7代であり、老中首座として
日米和親条約を締結した阿部正弘の銅像。
藩主としては新たな藩校・誠之館の設置を行っている。
二の丸帯曲輪西側から南方向を見る。
右奥にはかつて神辺二番櫓があった。
このあたりには「水の手門」があったらしいが、
遺構らしきものは見当たらなかった。
棗門虎口には現在模擬の冠木門が設置されている。 左奥の石垣は内六番櫓跡。
塩櫓(内五番櫓)跡の石垣。
本来の位置より北側に移設された
天守の礎石。
テニスコートから南を向いて
天守の礎石と再建天守を見る。
この時点での時刻は15時56分。
見学予定の広島県立歴史博物館は
入館が16時30分まで、閉館は17時なので、
いったん福山城跡探訪を中断して
県立歴史博物館へ向かった。
<その2に続く>

福 山(その2)>
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