円町駅別館 YenTown Station annex旅の記録2010
小 田
Oda
[茨城県つくば市]

2010年3月20日


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小田バス停から小田城跡へ向かう途中、古そうなお堂(屋根を除く)を撮影。
延寿院薬師堂。
山号は「富岡山」。
薬師堂のそばには地蔵や「聖徳太子」と刻まれた石碑がある。
右側に「元禄十三年庚辰」(西暦1700年)と刻まれている供養碑。
秋田で見かけたものより大きい庚申塚と地蔵たち。
小田小学校・稲荷神社の脇を通り過ぎ、道なりに進んでいくと、ようやく小田城跡に到着。
土塁の手前にある土色の部分は北側の堀跡。
北東にある鐘楼台。鐘撞堂があったらしい。
本丸東側の堀跡。
鐘楼台には大きな五輪塔と、
大量の小さな石塔があった。
鐘楼台から東側堀跡と南東の櫓台(涼台)を見る。
画面中ほどに見える水路より向こう側は出丸のような「信田(志田)曲輪(しだくるわ)」があった。
小田城本丸跡を北西−南東に突っ切っている筑波線廃線跡。
しかし、本丸部分だけはサイクリングロードになっていない。
北西方向(岩瀬方)を見る。
同じ場所から南東方向(土浦方)を見る。
同じ場所から北東方向(鐘楼台)を見る。
同じ場所から南東方向(涼台)を見る。
南東部から東側堀跡を見る。
東側には虎口があり、そこから木橋が渡されていたらしいが、それらしき跡は見当たらなかった。
同じ場所からサイクリングロードの土浦方を見る。
サイクリングロードはここで本丸跡に直進せず左折。
本丸跡の南側を迂回する。
同じ場所から涼台を見る。
同じ場所から廃線跡の岩瀬方を見る。
本丸南側に広がる堀跡の東端。
涼台へ上がる途中に「史跡 小田城阯」の碑と筑波町(現・つくば市)教育委員会による説明が記された石碑があった。
石碑によると、涼台には樹齢800年の大欅があったらしいが、現在はこの通り切り株だけが残っている。
涼台から南側堀跡を見る。
同じ場所から本丸内を見る。
桜はまだ開花していなかった。
本丸の南側にある曲輪のさらに南側にも何かの施設があるようだが、小田城に関係があるものかどうかは不明。
「小田城墟之碑」。
楠・新田などの人名が見えることから、南北朝時代における南朝の拠点としての小田城の説明が書かれているものと思われる。
本丸南側の堀跡とサイクリングロード。
堀の外側では南西馬出の復元工事中だった。
南西の隅には虎口があったらしい。
つくば市教育委員会作成のパンフレットに描かれた整備イメージにも描かれていることから将来復元するようだが、現時点では何もない。
北畠親房が小田城で『神皇正統記』の執筆を始めたことを記念する「神皇正統記起稿之地」の碑。
「神」の字の上にも横に2文字刻まれているが、読み取れなかった。
涼台から降りて北側を見る。
画面左側の山肌が削れているあたりに、小田城の詰の城として前山城があったらしい。
サイクリングロードから涼台を撮影。
本丸南西隅から涼台と南側堀跡を撮影。
本丸南西隅から本丸西側堀跡を撮影。
本丸北西隅からサイクリングロード岩瀬方を見る。
同じ場所から廃線跡土浦方を見る。
廃線跡に降りて土浦方を撮影。
前述のパンフレットの整備イメージに廃線跡は描かれていないので、この廃線跡も「整備されて」無くなるかもしれない。
迂回したサイクリングロードと合流して、少し岩瀬方へ進んだところの踏切跡と思われる交差点(※)から常陸小田駅跡を撮影。
※3つ前の画像で「止まれ」標識が立っているところ
小田氏8代目の小田孝朝が建立したといわれる大日如来種子碑。
南西馬出の復元工事現場から西側堀跡を撮影。
同じ場所から南側堀跡と本丸南端部を撮影。
<現在地は南側堀跡の東端(右のGoogleマップ参照)>
サイクリングロードに出て土浦方を撮影。

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整備イメージ図にはこの信田(志田)曲輪は入っていなかったが、このまま残されるのだろうか。
中城と外側の曲輪との間にあった堀の跡(北側)。
同じ場所の南側。
小田城址を後にし、土浦行きのバスに乗るため「小田十字路」バス停に向かう途中、畳屋のそばで見かけた「三宝大荒神」碑。
このあたりには三村山不殺生界碑があるらしいが、バスの時刻が迫っていたため三宝大荒神碑だけ撮影してこの場所を離れた。
小田城跡入口バス停のそばには大きな庚申塔があった。
「小田十字路」バス停で土浦駅行きの関鉄バスに乗車。
バスは国道125号を走行していたため、つくば市内では廃線跡のサイクリングロードが右手に見えていたが、土浦市に入ったところ(土浦市高岡)で見えなくなった。

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