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倉 吉(その1:JR倉吉駅→倉吉線泰久寺橋梁跡) |
2泊3日鳥取県横断の旅 | |
2014年11月1日(1日目) |
倉 吉1 | 倉 吉2 | 若 桜 | 鳥 取1 | 鳥 取2 | 倉 吉3 |
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[2014年11月1日土曜日(1日目)] 1日目からいきなりタイトな乗り継ぎとなった。 家を5時15分に出て最寄り駅発の2番列車に乗り、 町田で横浜線に乗り換え、新横浜から6時39分発の 広島行き「のぞみ151号」に乗車。 京都で「のぞみ151号」を降り、在来線6番のりばへ。 8時52分京都始発の倉吉行き特急 「スーパーはくと3号」で倉吉に向かった。 |
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12時31分、終着駅の倉吉駅に到着。ここでも ゆっくりと駅構内や駅舎の撮影をしている暇はない。 |
「鳥取藩のりあいばす乗放題手形」を購入し、ギリギリで 12時40分発の明高行き日本交通バスに乗車できた。 |
「鳥取藩のりあいばす乗放題手形」は3日間有効。 鳥取県内の日本交通および日の丸自動車の路線バス全系統、 一部コミュニティバスに乗り放題。 |
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約50分のバス移動でたどり着いたこの場所は鳥取県倉吉市関金町堀。 | |
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小鴨川に架かる「神社橋」という橋を渡る。 |
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(←上流方向)神社橋から見た小鴨川。(下流方向→) | |
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橋を渡り切り、突き当りの丁字路を左折すると、橋の名の由来と思われる「山郷神社」がある。 現地の説明板によると、元は堀地区の氏神を祀る「堀神社」だったが、大正2年に堀地区より奥にある 5つの神社を合祀して現在の「山郷神社」に改称した。祭神は須佐之男命、與田別命、菅原道真。 |
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倉吉市道陽線を西に進み、数台分の駐車スペースがあるこの場所に到着。 「房州・館山藩主 里見安房守忠義終焉之地」の案内板がある。Y字に分かれた道は左側を進む。 |
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ストリートビューの撮影車が入っていない細い道を進む。 | 突き当りにある階段を上ると・・・ |
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上った先の田地の片隅に、最初の目的地があった。 | |
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里見忠義主従の廟。忠義の死後に殉死した6人の家臣を祀っていることから「六人塚」とも称される。 背後には樹高15m、樹齢400年といわれるスダジイがある。 忠義は大久保忠隣の孫娘を正室として迎えていたため、忠隣の失脚により常陸鹿島を経て伯耆倉吉3万石へ 転封とされた。実質的な知行は4000石程度とされ、城も持てず神坂(現在の倉吉市東町付近)に住居を構えた。 元和3年(1617年)に池田光政が播磨姫路42万石から因幡・伯耆(居城は因幡鳥取)32万石に転封されてくると 忠義の知行は没収され、屋敷も下田中に移された。さらに元和5年に堀へ移住、元和8年6月19日に逝去(享年29)。 廟のある場所一帯が里見屋敷跡と推定されている。また、背後の椎の木は「里見屋敷のシイ」として平成18年に 倉吉市の保存樹に指定されている。主従の怨霊がとどまっており、椎を切れば祟るという伝承があるらしい。 |
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<参考>倉吉市東町の、 里見屋敷跡とされる場所付近のストリートビュー。 |
<参考>倉吉市下田中町の、 里見屋敷跡とされる場所付近のストリートビュー。 |
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舗装された道の先は山郷神社。 忠義主従の廟を訪れる場合、先ほど通った回り道より 山郷神社の石段を上ったほうが分かりやすそうだ。 また、先ほどのY字の分かれ道で右側の道を進んでも 神社脇に出るので、車で近くまで行くこともできそう。 |
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山郷神社の石段を下り、再び神社橋を渡ると、 鳥取県道45号を東へ進む。 山守郵便局のある角を右折すると、次の目的地に到着。 このサイクリングロードは旧国鉄倉吉線の廃線跡で、 この場所がその終端。 |
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倉吉線跡のサイクリングロードを東に進み始める。 |
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少し歩いた後、振り返って終端を見る。 右奥の赤い屋根が山守郵便局で、関金町山守支所が 廃止された後、住民票の発行など一部の行政の業務を 関金町→倉吉市から委託されている。 なお、倉吉線を延長する形で中国勝山駅まで 「南勝線」の計画があったが、終端の延長線上にあたる 郵便局の裏手に作りかけの築堤などを見つけることは できなかった。 |
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倉吉線の終着駅・山守駅の跡。レールや駅舎、施設などは残っていない。 | |
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「駅前広場」の跡。 | 駅跡へのアプローチ道路。 |
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アプローチ道路の傍らに「工」マークの境界杭が残っていた。 | |
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県道45号側から山守駅跡を見る。 | |
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東側から山守駅跡を撮影した後、 | 再び廃線跡のサイクリングロードを東に進む。 |
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倉吉駅(旧上井駅)から数えて倉吉線「最後の」踏切跡と思われる十字路。 | |
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終端からほぼ直線だった廃線跡は、 この辺りで左にカーブを切る。 |
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2つ目の「踏切跡」。 | 山守駅跡方面を振り返る。 |
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ここで廃線跡のサイクリングロードは終了。 | 廃線跡も途切れ、車道になっている。 |
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車道を進むと、奥に廃線跡らしき構造物、 右手に「関金資料館」がある。 |
ただ、「関金資料館」は残念ながら 2014年3月31日をもって閉館していた。 |
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奥には倉吉線跡の築堤と橋台があった。 | 関金資料館(旧関金町資料館)の入口。 柵は開いていたが、すでに閉館している施設なので 中には入らなかった。 |
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築堤の横に回ると、なんと木製の階段が設置されており 築堤上に上れるようになっていた。 |
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(←山守方面)階段途中から築堤上を撮影。レール、枕木が残されている。(泰久寺・関金方面→) | |
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築堤上から山守方面を撮影。 | 同じ場所から泰久寺・関金方面を撮影。 |
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築堤上を泰久寺・関金方面に向かって歩いてみる。 レール、枕木以外にも 下であげたようなものが残っていた。 |
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「通信ケーブル」と刻まれた石杭。 | 「信号ケーブル」と刻まれた石杭。 |
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左手に、中身は不詳だが 鉄道関係の機器が入っていると思われるボックス。 |
小鴨川の手前で築堤とともにレールは途切れた。 「鳥取県」の金属柱にロープが張られている。 |
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途切れたレールの延長線上には・・・ | 県道45号を越えた先に 橋台と封鎖された山守トンネルが見える。 |
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(←上流方向)築堤の端から小鴨川を見る。(下流方向→) | |
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元来た道を戻り、築堤から降りて県道45号を北に進む。 先ほど築堤上から見えた、小鴨川に架かる今西橋を渡る。 |
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今度は今西橋から倉吉線跡の築堤を見る。 | 築堤の先端をズーム。レールが少しだけ中空に出ている。 |
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今西橋を渡り切り、進行方向を東に変える。向かって左手には、先ほど築堤上から見えた橋台がある。 | |
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県道45号を挟んだ反対側は鳥取県中部森林組合の木材置場となっており、倉吉線の遺構はない。 奥には先ほどまでいた、小鴨川対岸の築堤と橋台が見える。 |
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関金町泰久寺地区に入り、進行方向左手に 雑木林で隠れていた倉吉線の路盤が見えた。 (赤いラインを引いたところが路盤。 ここにマウスポインタを置くとラインが消えます。) |
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「ここは泰久寺です」と書かれたカヌー型の案内板がある緩やかな上り坂の先に、泰久寺橋梁跡の橋台がある。 | |
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雨で濡れた落ち葉が積もる坂を上る。 | |
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泰久寺橋梁跡を仰ぎ見る。 | 坂を上り切って別アングルから見る。 |
泰久寺橋梁は合資会社西山組によって昭和14年2月12日に建設着手、昭和16年9月9日に竣功(現地の銘板による)。 | |
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大山池(正式名称は狼谷溜池)への道。 再度ここに戻ってきた際に時間の余裕があったら 行くことにしたが、結局その余裕はなかった。 |
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先ほど県道45号から見えた倉吉線の路盤を見に行くため 画像の矢印方向に進む。 (マウスポインタをここに置くと画像内の文字が消えます。) <その2に続く> |
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